「見る」とは、どのようなことだろうか。「見えている」と思い込んでいるその瞬間、私たちの視覚はすでに錯覚にさらされている。長年にわたる異文化での生活のなかで、私は「誤解」と「ズレ」が人間の認識の根底にあることを実感してきた。言葉が通じないもどかしさは、やがて言葉の限界を可視化する実験へと私を導いた。視覚もまた同じように、絶えず情報を選別し、補完し、時に歪めてしまう。
私の作品に現れる水平の筆触や重なり合う色彩の層――それらは単なる抽象ではない。顔の輪郭を探るように画面を見つめる観客の視線は、やがて虹色のノイズのなかからかすかな相貌を「読み取る」だろう。その瞬間、鑑賞者のまなざしは、私が描いたのではなく、観客自身の認識によって形象を紡ぎ出す。そこには、「見る」という行為の能動的な側面があり、認識が決して受動的な記録ではないことの証左がある。
日本眼循環学会という場は、私にとって特別な意味を持つ。眼とは単なる器官ではなく、世界と自己を結ぶ流動的な接点だからだ。涙の循環、まばたきのリズム、光が神経を伝わる速さ――それらはすべて「流れ」のなかで意味を成している。私の絵画における色彩の流動や筆触の反復もまた、一つの循環であり、視線の循環でもある。認識は固定されたものではなく、絶えず更新され、ずれ、再び結びつく。その絶え間ない循環のなかにこそ、私たちが他者を理解し、世界を知覚する真のダイナミズムが宿っている。
今回のポスターでは、流動的なブルーグリーンの色彩のなかに、抽象と具象のはざまにあるような視覚の曖昧さを感じる作品が使われている。診察室で患者と医師が交わす視線、あるいは単なる「まばたき」の一瞬。それらのあいだを、虹色の筆の波がつなぐ。見ることは、決して一方的な受容ではない。眼は世界を受け止めると同時に、世界に問いかけている。その対話的な循環の美しさを、ぜひ体感していただきたい。